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◎生国魂《いくたま》神社(天王寺区生玉町)

 生国魂神社々伝によれば「第一代|神武《じんむ》天皇御東征に際し、上町台地の北端である『難波之𥔎《なにわのさき》』に大八州の神霊として生国魂大神を鎮祭された」となっている。

元は石山本願寺の隣りに

 明応《めいおう》五年(一四九六)、蓮如《れんにょ》上人が「石山本願寺」を、生国魂神社の隣接地に建立する。「石山御坊」とも称した石山本願寺は、やがて本願寺教団の拠点となり、織田信長との「石山合戦」を十年近く行なうが、天正八年(一五八〇) 信長の攻略に屈し、要塞堅固・荘厳《そうごん》美麗《びれい》とうたわれた本願寺は灰燼《は<ママ か?>いじん》に帰した。
 信長亡き後、豊臣秀吉は石山本願寺の跡に難攻不落《なんこうふらく》の大阪城を築く。天正《てんしょう》十ー年より築城に入るが、 まず城域内に含まれる生国魂神社を現在地に移し、社領三百石を寄進して社殿を造り替えた。天正十三年九月九日に遷座《せんざ》奉祝祭が行われ、以後九月九日は生国魂神社の例祭日となった。
 その後、社殿は元和六年(一六一五)の兵火、明治四十五年の「南地の大火」昭和二十年三月の戦火と再三罹災に会うがそのつど復興してきている。

異様な感じの「生国魂造」

 生国魂神社の本殿は「生国魂造」と称する。他に例を見ない建築様式であり、現在の本殿も、往時の規模を踏襲《とうしゅう》して建てられたものである。すなわち、五間四面棟高六十尺の本殿と七間四面の幣殿の屋根は一つの流造で葺きおろし、正面の屋根に千鳥破風・すがり唐破風・さらに千鳥破風の三破風を据えたもので、天正年間の豪壮な桃山文化の遺構を伝えたものとされている。
 私は先日、つくづくとその本殿を見上げて「出雲大社と感じが似ている」と思わずつぶやいたのだが、住吉大社や他の氏神さんとも違う、むしろ異様な建物を見たというふうであった。
 高さを誇っているようでもあるが、何か近寄りがたい。権威ではなく不思議な恐れさえ感じられたのである。

「大物主」とオオクニヌシ

 その理由は、祭神について調べることで判明した。
 生国魂神社の祭神は、生島・出島神二座を主神とするが、相殿神として「大物主神」を祀っているのである。
 生島神、足島神とは「大八州の霊」であり、日本列島全体の国魂ということになる。国魂とは、古代人がそれぞれの地域に存在したとみなした神霊のことである。
 一方、それに対して、「大物主神」とは、大和三輪に祀られている神だが、いまの神道では出雲のオオクニヌシと同一人物とさている。なぜ出雲の神を大和で祀らなければならないか、という疑問に対して梅原猛氏は、もともと大和三輪の先住民であった大物主が、大和朝廷に敗北して「国譲り」をしたあと、出雲に流され祀られるようになったと述べている。大和朝廷は大物主の怨霊によるタタリを恐れて「大きな神殿(出雲大社)を建て丁重に祀った」ということになるのではないだろうか。
 生国魂神社にもし最初から「大物主神」が祀られていたとすれば、同神社建立の目的は、大物主の怨霊の大和への帰国阻止にあったと思われる。

小泉首相の靖国神社参拝

 時の権力者が、ライバルを無実の罪に陥れ、そのタタリを恐れて神社・仏閣を建立した例は、日本の歴史では結構多い。天満宮しかり、奈良の大仏もそう云われている。そしてその効果はほとんどなかったというのも、歴史の回答である。
 小泉首相の靖国神社公式参拝も結局は、東条英機などの入級戦犯への参拝であったという歴史の回答は、もうすでに出されている。

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◎四天王寺 (天王寺区四天王寺一)

 四天王寺は推古天皇元年(五九三)現在の地に聖徳太子の発願により建立された。
 用明《ようめい》天皇の後継者争いで蘇我馬子《そがのうまこ》厩戸皇子(後世になって聖徳太子と呼ばれる)らが、物部守屋を滅ぼした戦いの際、厩戸皇子は楓の樹を切り取り、四天王の像を作り、頂髪にそれを置き「今もし我をして勝たしめるならば、寺塔を建てよう」と誓願し、馬子も誓い、諸兵を督励《とくれい》し攻めて勝利した。その時の約束を果たしたもの、と寺の縁起で書いているが、今では疑問視されている。
 しかし、守屋滅亡の経過や戦いの場所、守屋の財産投入によって四天王寺が建立された事実からみて、全てが作り話とは云えない。

再三の災害、室戸台風、空襲

 四天王寺式といわれるその伽藍《がらん》は、塔婆が前面に、金堂がその背後にあり、法隆寺の塔婆と金堂が左右に並列するのと違っている。
 創建当時の四天王寺は、敬田院・悲田院・施薬院・療病院からなっていたが、再三の火災をうけ、そのたびに主要伽藍が焼けた。
 享和元年(一ハ〇ー)の雷火による災害のあと、大阪の淡路屋太郎兵衛の発願で喜捨が集められ、文化九年 (一ハーニ)再興供養が営まれ、その時の姿で近代に入ったが、昭和九年(ー九三四)室戸台風で塔と中門が倒れ、二〇年三月の空襲で伽藍の主要部分を焼失した。

夕陽ヶ丘で「日想感」信仰

 平安末期から鎌倉時代にかけてのあいつぐ戦乱は、人々に現世否定、浄土への再生・憧憬となって現れた。阿弥陀や浄土の姿を思い浮かべることによって、浄土に再生することができると説く浄土教では、それには一六種の方法があり、その第一は日想観であるとした。
 太陽が西に沈むのを見て極楽を思うわけで、当時、上町台地の西端はそそり立つ崖の上になっていて、各地で「タ陽ヵ丘」と呼ばれていた程で、その上に立ち大阪湾を一望すれば、はるか西海に沈む落日の荘厳さは、見るものに現世の苦しみを逃れて、西方浄土に生きたい気持ちをかりたてるものがあった。

救いを求めて庶民が病者が

 そして彼岸の中日には、四天王寺の西門は極楽の東門に向かっていると信じられ、四天王寺が浄土信仰の霊地となっていった。
 四天王寺の特徴は、救いを求めて集まってくる人々の大部分が、あいつぐ戦乱や苛酷な収奪からはじき出された、庶民であり病者たちであった。
 四天王寺の近くに、一心寺・大仏念寺・長宝寺などがあるのは、この地域が当時の浄土信仰の拠点であったことを示している。

小泉支持は切実な要求付き

 さて、目を現代に転じたら、マスコミの調査によれば小泉内閣は、異常な位の高い支持率だという。調査の仕方や、マスコミの世論誘導的な報道の仕方にも大いに問題があると思うが、私は小泉首相はとんでもないくわせものだと指摘したい。なぜなら彼は、「自民党を変えて日本を変える」と公約して首相になった。人々は「これが一番てっとり早い」と考えて支持したのであって、決して白紙委任したわけではない。むしろ「景気回復・リストラ反対・将来不安の解消」という切実な要求付きの支持なのである。そしてこれらは必然的に自民党的政治のやり方を抜本的に変えなければ実現でき
ないものばかりなのだ。

自民党的政治を変えないと

 ところが小泉首相は「自分が当選したことは自民党が変わったということなんだ」と詭弁を弄し、公約に早速違反し、KSD汚職や機密費問題については追及しないという態度である。
 そして「日本を変える」として持ち出してきたものは、元々古い自民党がやりたくても国民の批判を恐れ出せなかった最悪のシナリオ。
 すなわち、中小企業ーー〇万〜三〇万社を倒産させ失業者を三百万人も増加させる。福祉・医療の更なる改悪。新たに高齢者から老人保険料の料金を取る、健保本人を三割負担にする。消費税の大幅引き上げ。憲法を改悪しアメリカの手先としての海外派兵。首相公選で独裁的な権カ確保。
 これでは自民党は少しも変わっていない。政・官・財の癒着も反省もなく続けられていくし、小泉内閣の高支持率のかげで自民党の高笑いが聞こえてくるではないか。

公約違反に国民の総反撃を

 いま、夕陽ヵ丘から見下ろしても、都会の喧騒とゼネコン・大銀行をボロもうけさせるだけに終わった、府、市立の「赤字発生巨大ビル」の林立をまのあたりにするのみ。荘厳な気持ちになるどころか、自・公・民オ—ル与党の悪政を思い起こし、怒りがこみあげてくる。
 今やらねばならないことは、あきらめや逃避ではなく、たたかいに立ち上がること。そして四天王寺にこめられた、これまでの何億という人々の願いを実現することこそが、本当の意味での「浄土への再生」ではないであろうか。

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◎天王寺の坂 (夭王寺区夕陽丘町)

 「現代西成百景・今昔木津川物語」を書き始めて早や八年、今月で七十九号になった。
 郷土史を庶民の立場から見直すことによって、昔の人の伝えたかった本当のことを知りたいという思いからであったが、結果的には住む街に新たな愛着が生まれることにもなり、 思わぬ人から感謝されたりしている。
 最初は西成での百景を考えていたが、すぐそれでは視野がせまくなるということに気が付いた。西成区は阿倍野、住吉、住之江、大正、浪速、天王寺というそれぞれ特色のある六つもの行政区にかこまれためずらしい区なのである。その特徴を生かさない手はないとこれらの地域を貫く「木津川」にご登場を願ったわけである。
 「西成・阿倍野歴史の回廊」「西成・住吉歴史の街道」「西成・住之江歴史の海路」「西成・大正歴史の掛け橋」「西成・浪速歴史の界隈」と、下手なごろ合わせみたいなものを続けてくると、最後はやはり「西成・天王寺歴史の階段」ということになるか。

「坂めぐり」は名所めぐり

 事実、天王寺には有名な坂(階段)が数多く存在している。その紹介を昭和三十年(ー九五五)に発行の「天王寺区史」からすると「真言坂。この坂だけは高津表門筋から電株道を横切って生玉北門に達する坂で、坂の両側に真言宗の十坊があったところからかく名付けられる。市電下寺町停留所から生国瑰神社へ上る坂は生玉新道といわれる。源聖寺坂。下寺町の源聖寺南側から上り齢延寺と銀山寺の間に出る。その中腹に「こんにゃくの八兵衛』という祠があった。ハ兵衛とは狸で、買物をしてこの前を通ると、八兵衛さんにこんにゃくなどをとられるからかくいわれる。夕陽丘新道。こ
れは第二次都市計画事業として昭和十二年(ー九三七)頃に新につけられたもの。
ロ縄坂。
摂津名所図絵大成には『坂の名義詳ならず。道の曲がれるによりて名づくるなるべし』とある。摂陽群談では蛇坂と書く。愛染坂。一名|勝鬘《しょうまん》坂といわれる。遊行寺南側より上り勝鬘院門前に至るところからこの名がある。その他に新清水に登る清水坂。安居天神へ詣る天神坂。合邦《がっぽう》が辻で有名な逢坂(電車道)などがある」
 昭和五五年(ー九八〇)七月一日ロ縄坂の上に織田作之助の文学碑ができた。
 小説「夫婦善哉《みょうとぜんざい》」で一躍世に出た織田作之助は、 ユニ—クな発想と主人公らが大阪弁を使いこなす小説を次々に発表し受けたが、 惜しくも三十四オで他界してしまった。
 天王寺区上汐町四丁目の通称河童(ガタロ) 横町で大正二年に生まれた織田作之助は旧制高津中学校に学んだが、毎日のようにこれらの坂を利用していたのだろう。

脇田さんと「織田作」とは

 しかし私は、「織田作」ときけばすぐに連想するのは、今も天下茶屋の「聖天さん」の近くに住んでおられる脇田澄子さんの、昭和六十年(ー九八五)に書かれたエッセー「織田作さんの後ろ姿」のことである。
 昭和十八年(ー九四三)の暮れ、脇田さん一家は天下茶屋から高野線の北野田に疎開し、お父さんが駅前で慣れない風呂屋をはじめたところ、近くの新しい借家に疎開して来た織田作さんが何回か入浴に来たとのことである。風呂屋といつても石炭の配給のあるときしかできず、営業は週ー、二回で結局は一年位で休業してしまったのだが。当時脇田さんは堺市の国民学校訓導(現在の小学校教論)になって一年目、夕方母と交代して番台に座っていたとき「着物姿の長髮長身の男がさっと番台の横をとおって行った。うつ向き加減の広い額に、はらりと垂れた前髪、やや異口の感じの考え深そうな目、而長の吉白い頰に刻まれた縦じわなどか、一瞬のことですのに、私の脳裏にやきつきました」と脇田さんは書いている。
 昭和十九年(一九四四)の八月の終わり頃、織田作さんが浴衣を裏返しに着て帰られたことがあったそうだ。「こんなとき妹なら、なんのためらいもなく「もしもし織田作さん、浴衣が裏返しになっていますよ』と声をかけたでしょうに、私にはそれが出来なかった」と脇田さんは悔やんでいる 同時に脇田さんは、その年の二月に、ニオ年下の文学好きで物おじしない妹を、あの時期に腹膜炎のこじれカらなくしてしまったことも 、深く悔いておられることが直接ふれていなくても心に伝わってくる作品だ。
 脇田さんがその後半世紀にわたって、教職にあるときも退いてからも、ひたむきに反戦平和と文学活動にたずさわってこられた原点がここにあるのではないかと私は思う。
 「天王寺の坂」の話から思わぬ方向に発展してしまったが、階段をゆっくりと昇って行くとき、人はさまざまなことを想い浮かべるものではないでろうか。

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◎安倍晴明《あべのせいめい》神社 (阿倍野区元町五)

 平安時代という印象からこの辺りで連想される情景は、夕陽を浴びて上町台地の西端の熊野街道を南へ、左右にゆれながら進む、王朝貴族の熊野詣での華やかな行列のそれである。
 眼下には、鏡のように光り果てしなく広がる遠浅の海。その中に姿を現わす無数の島々。帆掛け船が細井川の河口に開けた墨江津の港に出入りしている。目をこらせば白砂青松の霰《あられ》松原も、住吉大社の森も見える。
 「これが天下の絶景勝間浦なのか」と、崖の上から身を乗り出すようにして見とれていた行列の一行も、再び動きだすと間もなく先頭が今夜の宿舎となる、阿倍野王子神社に到着した。
 やがて、空も海も茜色に染まり、巨大な太陽が西に沈むと、一瞬の間に情景は暗転する。ただ、王子神社の客殿だけが、明々と灯をともし、飽食した貴族たちが、供奉《くふ》の公卿《くぎょう》をよんで歌会に興じていた。

阿倍野で生まれた陰陽家

 神社の床下でそっと足を伸ばした従者の一人が、今日が出発であるこれから二十日間の旅路をあんじていると、どこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえた。
 従者は家に残してきた妻子の声かと、はっとしたが「空みみか」つぶやいて、荷物を枕にして、ごろりと横になった。
 延喜ニー年(九二一)の月日は不明。阿倍野王子神社北隣、大膳太夫安倍保名(やすな)の邸に一人の男児が誕生した。後の安倍晴明である。説話によれば母の名は葛葉《くずは》姫といい、その正体は保名が信太の森で命を助けた女狐であったという。
 安倍晴明とは平安中期の陰陽家(おんみょうか)、大文博士、主計|権《ごん》助などを歴任して、大膳|大夫《たいふ》・左京権大夫となる。極位は従四位下。加茂忠行・保徳父子を師として天文道・陰陽道を学び、天皇、貴族の陰陽道諸祭や占いに従事した。その超能力についての神秘的な伝説は、古くから各地で数多く伝えられている。

住民が自らつくった神社

 かつての安倍晴明邸跡に今、安倍晴明神社がある。
 阿倍野区史によれば「当社の創始年代また明らかでないが、治承《じしょう》年間(ーー七七)すでに神祠《しんし》があったことが旧記に見えている。のち、幾変遷《いくへんせん》を重ねて社殿も荒廃し、維新の頃僅かに小社祠と安倍晴明誕生地と刻した一碑が存在したのみであった。よって村民晴明講をつくり復興を府知事に嘆願したが、成就せず、大正十年一月保田伊之助一五〇坪他数十坪の敷地を寄付、漸く阿倍野王子神社飛境内社と公認の許可を得。大正十四年三月鎌倉時代の様式を則とした壮麗の社殿を竣工した。なお社宝として有名な葛之葉子別れの遺書並びに絹本設色の安倍晴明公画像がある」としている。

平安と似ている平成

 平安時代といえば何か王朝文化が繰り広げられ、源氏物語に見るような優雅な時代を想像してしまうが、それは極一部の貴族階級の中でのことで、実際は、度重なる疫病の流行や地震・雷・大火・洪水、旱魅《かんばつ》などに苦しみ、一方、支配階級は自らの行状からくる、怨霊《おんりょう》の祟りに怯え続けていた暗黒の時代でもあった。
 そこでそれらの災厄から逃れるために、陰陽道が発達した。
 当時は陰陽寮という名の役所が、宮内省や兵部省と共に国の重要機関として存在し、情報省的役割を果たしていた訳で、いま国会で問題になっている「乱脈機密費」の元祖だったかもしれない。
 しかし、安倍晴明は単なる「権力の手先」ではなかったようで、それは晴明ゆかりの神社・お寺が全国各地に数十も存在し、その他晴明が関係した橋・井戸などもいたるところにあり、今も人に語り継がれていることからみても云えると思う。
 いずれにしても、われらが地元の晴明神社は、陰陽道ブームが来ようが去ろうが関係なく、「恋しくば訪ね来てみよ和泉なる、信太の森のうらみ葛の葉」で有名な「葛之葉子別れ」の伝説一筋に、都会の中の静寂を保ってくれている事に心から感謝したい。

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◎達磨《だるま》寺

 次郎と友子の「びっくり史跡巡り」は今日は法輪寺(達磨《だるま》寺)に来ている。由来は「この寺は洛陽円町、北野天満宮ゆかりの紙屋川畔にある。臨済宗《りんざいしゅう》妙心寺《みょうしんじ》派の名刹であり、通称『達磨寺』の名で親しまれている。享保十三年(一七一八)大愚《さいぐ》宗築禅師《そうちくぜんじ》を開山とし、荒木光品宗禎居士が開基となり、万海慈源和尚《ばんかいじげんおしょう》が創建したものである。創建には十年の歳月を要したといわれている。開基の荒木氏は両替商であり、武家の開基になる寺院の多い妙心寺派にあっては異色の禅刹《ぜんさつ》である」
 次郎が語る「キリスト教とイスラム教はもとをたどれば同じ宗教だ。キリスト教ではイエスがイスラム教では厶ハンマドが伝達者であり、その伝えの違いが別の宗教になったものだ。釈迦の仏教は『絶対神』を認めていない。したがって神の言葉はない。釈迦が語ったのは、自分で考え、自分で見いだした悟りの道なのだ」
 「それではお経は何なの」と友子がたずねる。
 次郎がつづける「お経は釈迦が弟子たちに語った、悟りのための手引書。しかし、これらがすべて釈迦の言葉ならいいのだが、実際には釈迦の死後、長い年月の中で多数の無名の著者が『釈迦の教え.!として、自分の思いを書き表わしてきた蓄積なのだ」
 友子「大乗仏教のことだね」
 次郎「釈迦の死後五百年たってインドに『われわれを助けてくれる不思議なカがあり、それが多くのものを一挙に救い上げるという神秘的な大乗仏教《だいじょうぶっきょう》がおこり、これが釈迦の仏教と同時に中国に入り、後に日本には大乗仏教が中心的に入ってきた」
 友子「そこで…」
 次郎「ここは私に云わせて。そこで人々は気に入った大乗経典《だいじょうきょうてん》を選び『これこそが本当の釈迦の仏教だ』と主張したのだ。その結果、日本に多数の宗派が生まれた。十三宗五十六派以上ある」
 友子「成立時期の古いものから上げれば奈良仏教と呼ばれる法相宗《ほっそうしゅう》、華厳宗《けごんしゅう》、律宗《りっしゅう》、平安時代に広まった天台宗《てんだいしゅう》と真言宗《しんごんしゅう》。浄土教の流れをくむ融通念仏宗《ゆうづうねんぶつしゅう》、浄土宗《じょうどしゅう》、浄土真宗《じょうどしんしゅう》、時宗《じしゅう》。禅宗《ぜんしゅう》の臨済宗《りいざいしゅう》、曹洞宗《そうどうしゅう》、黄漿宗《おうばくしゅう》、そして日蓮宗《にちれんしゅう》です」
 次郎「だるま寺の所属する臨済宗は『ただひたすら座禅を組むその行為が悟りである。』と禅宗は座禅を重視するのだが、参禅者たちが壁を背にして座っておれば臨済宗、各自壁に向かつて座っていれば曹洞宗だ。また禅問答は臨済宗だけだ」
 最後に、起上り達磨の由来を引用しておきます。
 「インドから中国へ禅を伝え、禅宗の初祖となった達磨大師は、今日、日本では『だるまさん』として親しまれています。達磨大師は西暦五二七年。インドから海路三年かかって中国に渡られ、面壁九年《》めんぺきくねん、手も足もなくなり、忍苦の修業をして禅宗の開祖となる。日本ではこの達磨を七転八起の起上り小法師に変えて、独特の発展をさせたのです」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2017年5月、6月号掲載

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◎ナニワ企業団地 (西成区南津守五)

 昭和五五年(ー九八〇)九月一七日、私は大阪府議会議員に三度目の挑戦で初当選したものの、府議の仕事についてもあまり知らないままに、府庁別館のせまい会議室での緊迫した交渉に参加し、脂汗の出る午後の時間を過ごしていた。

「西六社」と「木津川筋」

 大阪市此花区にある「西六社」とは、日立造船・汽車会社・大阪ガス・住友金属・住友化学・住友電線などの大工場群のことで、古くから西大阪での雇用の大拠点であった。
 一方、西成区と住之江区にかけてある、佐の安ドツク・名村造船・藤永田造船などの造船所群は「木津川筋」と呼ばれ、南大阪の雇用の一大基地であった。
 七〇年代に入って大阪の大企業は、より安い労働力と広い敷地を求めて、大阪からの脱出を図り始めた。いわゆる産業の空洞化である。当時大阪府も市も、企業の自由だとして、これを野放しにした。

庶民の力で夢の企業団地を

 そんなときに木津川地域六行政区の民主商工会は、造船所跡地を、住工混在で高い賃料、劣悪な現状の工場に悩む、中小零細企業の「理想の企業団地」にしようという、大変なことを決めて立ち上がった。
 九月一七日には、木津川の防潮堤の移設場所をめぐっての、大阪府都市河川課との最終的な交渉が行われていたのである。
 造船所の都合によって、今までは防潮堤は工場正門の道路に沿って造られていたのを、本来の川沿いに造り直さなければ、企業団地は「堤外地」になり、開発許可も困難だという思わぬ情勢になっていた。

団地建設途上最大の山場

 地主には、手付金として二億五千九百万円を入れてある。一三八社がそれぞれ都合してきた血の出るような金である。府の回答がもし「ノー」であれば、夢がつぶれるどころではない。組合員への融資の道は閉ざされ、土地取得は不可能となり手付金も没収されるという、極めて深刻な事態に追い込まれることになるの
である。

組合側の正論を認めた課長

 十人近い代表達はじっと丫課長の口元を見つめていた。云うべきことは全部云った。後は回答を待つのみである。やっと丫課長が重い口を開いた。「皆さんが借入金の中から、巨額の金を出して防潮堤移設費の一部を負担するという話に感銘し、私自身が数回上京し直接に国と協議をすすめた結果、その条件で国の事業として護岸整備をしたい……」
 答えは「イエス」であった。しかも、エリート官僚(丫課長はその後土木部長を経て副知事になつた)らしくない、情のある誠実な言動に、その場にいた全員が感動にふるえた。
 しかし、団地協同組合専務理事の中筋和夫氏は、もうひとつ難問題を抱えていた。彼は思い切って丫課長に云った。「実は工事完成を国の案では、八三年一月となっているが、それを八一年十月としていただきたい」今から一年間でやってほしいという、非常識なことは十分に承知の上での要請であった。
 それでも丫課長の決意は不動であった。府は直ちに国に再度はたらきかけるなどして、三日後の交涉では工期を八一年度にすることで合意した。

今では全国から視察に

 その後、ナニワ企業団地協同組合は南側の名村造船所跡地に第二団地を造成、現在二六〇余社が、深刻な不況の中でも団結を固め、受発注対策と企業団地のイメージアップを目指す「中小企業テクノフェア」「テクノピア」への継続的な出展へと発展している。

二〇周年記念誌を発行

 ナニワ企業団地協同組合は二〇〇〇年四月に創立二〇周年を記念して記念誌を発行した。組合設立以前から携わり、組合専務理事、副理事長として一九年間実践してきた中筋和夫氏が、一年数ヶ月かけた文字通りの労作である。この本は、何度読んでも、時には泣かされ、時にははらはらさせられる、そして人生を生き抜く不屈の勇気を与えてくれる不思議な本である。

「木津川筋」はものづくり

 さて「西六社」は今、大阪市の「集客都市づくり」のモデルになり生産点は半減され、「ユニバ—サル・スタジオ・ジャパン」という、アメリカ映画村に変身させられた。
 「木津川筋」は多くの先覚者達の奮闘により、今も多数の雇用を確保してきている。
 今府議会に太田知事は、法人府民税均等割の倍額という中小企業への増税案を持ち出してきた。自力でがんばるナニワ企業団地の人達にも、全てかぶさってくる。
 大阪の庶民の心を知らない者のなせる業で、同じエリ—卜官僚でも大きな違いがあるものだと思う。
 中小企業家のチャレンジ精神、リーダーの人間像、団結と交流、そして話せば通じる人の情けと誠。多くのことを教え続けてくれるナニワ企業団地である。

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◎土佐藩住吉陣屋跡(住吉区東粉浜ニ)

 上町台地の西端の急な坂を降って、地理学的に云えば、いわゆる微高地に立つ東粉浜小学校から、西へ百㍍行けば、チンチン電車として親しまれている、阪堺線が南北に走る旧紀州街道に出る。この街道から東部、東西約百四十㍍、南北約三百六十㍍のほぼ長方形の地域は、旧粉浜村陣屋前といわれたところであるが、ここに幕末維新期に、土佐藩住吉陣屋があったことを知る人は少ない。
 まして、坂本竜馬・中岡慎太郎・後藤象二郎等の有名人らが、足しげく通つていたなどと想像する人はもっと少ないと思うのだが、その可能性の確率は案外高いのである。
 「幕府は万延元年(一八六〇)九月、大坂湾岸防衛のため土佐藩に対し、中在家村・今在家村(粉浜村の旧名)錯雑地にー万七十九坪余(約三・三㌶)の土地を与え陣屋を構築させた。土佐藩では後藤象二郎を普請奉行に、職人をはじめ木材・石材等にいたるまで土佐から運び込み、文久元年(一八六一)五月完成させた。絵図面によると、陣屋は西側紀州街道沿いを正面に、東側(上町台地西崖)を除く三方面にほほ半周する形で堀を巡らせていた。
 正面の橋を渡った正門すぐに陣屋本殿、その東側に武芸所(文武館)、士大将・士分用宿舎は北側に間口三十五間の平屋建二棟を、郷士以下足軽宿舎は上町台地沿いに南北間口七十二間の二階建一棟、その他厩舎・火薬庫・射撃場・操練場などを備え、約三百人が常駐していた。任務の一端として、木津川口千本松付近から対岸にかけて鉄鎖をわたし、それを上げ下げして船の航行を制限するなど防備に努めたという」(住吉区史)

坂本・中岡・後藤のトリオ

 坂本竜馬は文久二年(一八六二)三月土佐を脱藩したのち諸国をまわり、中岡慎太郎と協力して薩長の接近をはかり、慶応二年(一八六八<ママ 正確には一八六六)一月、京都において西郷隆盛《さいごうたかもり》と桂《かつら》小五郎との会見を実現させ、薩長同盟という事業を成し遂げた。
 後藤象二郎は竜馬が脱藩の罪をおかしているが、今後土佐藩にとって重要な人物になるとの思いから、慶応三年(一八六七)四月、藩命により罪を許し、海援隊長に任命した。また、中岡慎太郎も同時に脱藩の罪を許され、陸援隊長となり海・陸双方から藩を応援することになった。
 坂本竜馬も当時「私一人にて五百人や七百人の人をひきいて天下のためをはかるより、土佐藩二十四万石を引きいて天下国家のためにつくす」といっているので、藩への復帰は矛盾のないところであった。

テロの嵐の犠牲に

 万延元年(一八六〇)三月の桜田門外の変以後、文久二年(ー八六二)四月に寺田屋の変、八月に生麦《なまむぎ》事件、十二月イギリス公使館焼き討ち事件などのテロ事件が続発、京都では京都守護職の配下であった近藤勇らの新撰組は、尊攘《そんじょう》派の志士たちをねらって、手当たり次第に斬り殺した。
 このように激動する情勢の最中に、大阪に新たに造られた、まるで城のような土佐藩住吉陣屋は、三百人の常駐体制といい、京都をにらんでのことであり、志士達が血相を変えてひんぱんに出入りしていた、とみるほうが自然ではないか。
 木津川口千本松付近は、当時は「天の橋立」と並び賞されるような、松の並木が連なる堤防が川の中程まであったから、対岸との間に鉄の鎖を張って、船の出入りをチェックしたとしても、三百人もいるはずはなかったと思われる。
 しかし、坂本・中岡共に慶応三年 (一八六九)<ママ、正確には一八六七>京都で暗殺された。

いま自由民権運動の流れは

 土佐藩は大政奉還《たいせいほうかん》という「無血革命」をなしとげることで、大きな役割を果たしたが、その後の明治新政権樹立では薩摩・長州に権力を独占されてしまった。薩長を中心とする藩閥専制《はんばつせんせい》に対立して、その後土佐で自由民権運動が進んでいった。
 土佐藩住吉陣屋跡の近くに住んでおられる、日本共産党元衆議院議員の正森成二さんが最も尊敬される方と常々云っておられた、高知県から一貫して衆議院に出ておられた、日本共産党の山原健二郎さんらにこそ土佐の坂本竜馬やその後の民権運動の伝統が引き継がれているのではないだろうか。
 土佐藩陣屋跡の真向かいに日本共産党の地区委員会の事務所がお世話になっているが、先の総選挙ではこの事務所から、小林みえこさんが出馬し、当選は逸したが好成績を得た。
 小林さんの演説はいつ聞いても力強く、心を打つものがある。歴史の歯車を大きく回すために共にがんばりたい。
 尚、後に陣屋は撤去されて主な建物は京都白川に移築、石垣は近くの生根神社の石垣に転用された。跡地は茶畑に、大正時代には草競馬場にも一時なったという。

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◎帝塚山古墳 (住吉区帝塚山西二—八)

 南海高野線帝塚山駅下車西へすぐのところにある帝塚山《てづかやま》古墳《こふん》は、五世紀代のかなり古い時代の古墳とみられ、前方後円墳《ぜんぽうこうえんふん》として原形を止める大阪市内唯一のものである。
 上町台地の崖に沿って立地し、その墳丘《ふんきゅう》は二段築成で前方部は西南の方向に向き、全長で百二十㍍、 後円部直径五十七㍍、前方部幅五十七㍍、高さは後円部十㍍に前方部八㍍。墳丘をめぐる周壕跡《しゅうごうあと》は幅二—三㍍が確認されている。また墳丘には円筒埴輪や葦石が認められるが、古墳の内部本体については不明。

今は国の史跡で入れない

 昭和三八年(ー九六三)に国指定の史跡になり、現在は高いさくをはりめぐらせ、入口には厳重な鍵がかけられていて、特別の許可がなければ入れない。
 帝塚山という名称の起源については諸説あるが、摂津誌では「陵墓大玉手塚、小玉手塚ともに住吉村玉出岡にあり地に因って墓の名とする」とかかれており、のち玉を略して手塚—帝塚となったというのが、昔、玉出という地名が、住吉神社から北へこの辺りまで一円にあったのかと面白い。

大伴金村は古代史の超大物

 さて、何人が埋葬されているかという点では、大伴金村説が有力である。大伴金村とは、第二十五代|武烈《ぶれつ》天皇時代の大連(むらじ)で、武烈天皇に子孫がいなくなったので、応神《おうじん》天皇の五世の孫といわれる人を越前から連れてきて、継体天皇にしたという、古代史の仕掛人の一人である。しかし継体天皇は皇位についても二十年間、大和に入れなかったというから、金村の強引なやり方に反感を持つ氏诙の箋合が強力であったとうかがえる。
 金村はその後引退して住吉の地に住んで、勢力を広げた。金村か大伴一族の誰かが埋葬されている可能性が高い。

小帝塚は里山の中に

 この塚は、もと大帝塚と小帝塚があり、今の帝塚山古墳の西南へ少し離れたところに小帝塚があった。この古墳の前方部は北北西を向き、全長二九・七㍍の小さな古墳であった。
 実は、大帝塚山も小帝塚山も、私の子供の頃の絶好の遊び場であった。特に小帝塚山は小学校の背後の里山山頂にあり、塚の前は第二運動場のようになっていて、ドッチボールや三角野球などよくやった。
 古墳の端に、松の大木が横に伸びていて、子供たちはそれを馬の鞍に見立てて順番に乗ってゆするので、木の皮がはげてつるつるになっていてよくすべった。
 里山一円は、山あり谷あり、野あり池ありで、まるでバランスよく作られた自然の公園であった。枝を折ってチャンバラごっこの刀にしようが、山芋を掘って持って帰ろうが、誰も怒らなかった。
 夕方にはトンボとり。糸の両端に色付きのセロハン紙で大豆ほどの小石をくくり、空に放りあげると色々なトンボが糸にからまって落ちてくる。取れなかった子には分けてやって、西の空が茜色に染まる頃には、大きな子が人数を確かめてみんなで山をおりた。

軍につぶされた古墳の運命

 戦時末期に、小帝塚山は里山もろとも軍の大規模な高射砲陣地となり、立入禁止で突貫工事。この時に古墳は跡形もなくつぶされてしまった。子供たちの楽園は一瞬にして、銃剣を捧げ持つ兵隊に囲まれた恐ろしい場所となった。
 敗戦後、小学校の高学年であったわたしたちは、毎日のように高射砲陣地の後始末をやらされた。食料はもちろんあらゆる物資が、兵隊たちに我先にと持ち去られた後の、砲弾から兵隊の寝ていた布団まで、栄養失調の細腕でぶら下げて、何回も山を上り下りした。
 その後は、里山を段々畑に変えてしまつた程の、開墾、そしていもづくり。一部では稲も植えた。
 新制中学の入学の写真は高射砲の発射台がバックになっている。それはまるで鉄とコンクリ—卜でつくられた「昭和の古墳」であったが、七、八基もあり各組のそれぞれしばらくは教室となった。
 堅牢《けんろう》な高射砲陣地は、その後何年もかかって破壊され、中学校になって今に至っている。
 大帝塚山にはむしろ中学生になってからの方がよく上った。草の上に寝そべって、友人と本を読んだりして時を過ごしたものだ。
 最近見たある郷土史の本に「小帝塚古墳というのもあったらしい」とふれられていたので、あわてて記憶にある部分だけをかいた。もっとよく調べて、いつか詳しくかいてみたい。

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◎玉出四ヶ寺(西成区玉出西)

 今も玉出にある光福寺・長源寺・誓源寺・善照寺は俗に玉出四ヶ寺と称し、 織田信長と本願寺派の間の石山合戦の際には、この玉出四ヶ寺が勝間村(玉出の旧称)に本願寺派の砦をつくり、出城の砦と協力して信長の軍勢とたたかったという歴史がある。

「勝間御堂」の光福寺

 昭和四三年発行の「西成区史」には、光福寺は吉祥《きっしょう》山光福寺と号し、真宗仏光寺派に属する。創始は、同寺によれば嘉祥《かしょう》元年(八四八)小野たかむらの発願により、奈良興福寺の別院として住吉玉出の里に創建、松林山興福寺と号したが、元応《げんおう》元年(一三一九)門信徒の要請により建物のすべてを勝間村に移し光福寺と改めた。元弘二年(一三三二)時の住職円槿上人、真宗仏光寺派了源上人に帰依《きえ》し宗派を真宗と改めこれを当寺の中興とした。寺宝・古文書等は元和元年(一六一五)大坂夏の陣を避けて高野山に疎開させたところ疎開先で火災にあい、そのほとんどを焼失、さらに太平洋戦争で残る諸物品も堂宇と共に戦火を受けすべて焼失した。
 なお旧幕時代には仏光寺門跡に所属する院家寺院として摂津の国院家や「勝間御堂」と称された。院家とは門跡寺院に所属する寺院のみが称し得る名称で、国院家とはその地方を代表する門跡寺院所属の寺とい、っことで、当時は大名等と同等の資格を有したという。
 境内四百八十八坪にして本堂外六棟存す。
 また境内墓地に「大江先生の墓」なるものがあり、これは大江元定(通称島右衛門)の墓で、無端斎藤土肥安信(積翠堂と号す)を師とし、揚心神道流の剣柔二道にすぐれ、吉田流の弓術をよくし後紀州侯に召抱えられ、勝間村に道場を開いて多くの子弟を薫陶した。寛政十一年(一七九九)九月五七オで没した。

片桐検地が善照寺で休息

 善照寺は浄土真宗本願寺派に属し旭日山と号する。慶長二年(一五九七)創建|元和《げんな》四年(一六一八)十一月四日本願寺派に属する。
 慶長一四年(一六〇九)片桐市正当地を検地の際休息所に使用し、その礼として三畝十四歩の土地を与えたと伝える。享保《きょうほ》二年(一七一七)本堂改築、明治十四年寺坊改築、さらに昭和十二年書院鐘楼等新築し諸設備を完備したが、二〇年三月十三日の戦災のため本堂・庫裏-書院を焼失。境内二百十三坪にして本堂外四棟を存す。

最初の小学校が長源寺に

 長源寺は海東山と号し、真宗大谷派に属す。開基は誓願寺と同じであり、明治六年二月には勝間村最初の小学校仮校舎として使用された。戦災で焼失。境内三百六十四坪、本堂外七棟を存す。
 誓願寺は天来山と号し、西本願寺末にして永禄元年顕如法主の直弟円信の創建なり。境内二百七十六坪、本堂外四棟を存するも、 戦災で堂宇を焼失。

明治維新の犠牲者も

 又、大正四年発行の「西成郡史」によれば、幕末の頃光福寺より一偉僧を出しぬ。名は宗中、学徳高く大志あり、二条・近衛諸家に出入りし、南船北馬《なんせんほくば》殆ど席の暖まるなく、四方志士の間に奔走し、尊皇《そんのう》の大儀を唱う。明治十年薩南に事起こるや密かに官命を帯び危難を冒して深く敵地に入り、辛うじて使命を達したる後不幸遂に敵兵に捕われ、同年五月二十八日殺されぬ。時に三三オなり。墓は日向国諸縣郡本荘村字十日町宝光寺境内にあり。後鹿児島県より其|横死《おうし》を哀れみて吊祭料及遺族扶助金を下賜せられたり、とある、
 玉出四ヶ寺がそれぞれ創建後、石山合戦・大坂夏の陣・明治維新・太平洋戦争と戦火をあびながら、「勝間千軒」の菩提《ぼだい》寺として一貫して存在してきた姿には感動させられるものがあるし、又それを守ってきた住民も素晴らしいと思う。

日本共産党と宗教者

 今年十一月に日本共産党の第二十二回大会が行われたが、その中で宗教者の党員は「生きとし生けるものの命と心をなによりも尊重し、ウソいつわりを許さない、常に弱者の立場に立つ慈悲の心、博愛の精神、このような宗教者の信条を、現代日本の政治において託せる政党は日本共産党しかありません。この数年間、多くの宗教者が共産党にたいする偏見の壁を乗り越えて、常に注目し関心を持ちはじめています。この大会を力に、日本の民主的改革へ国民多数の結集を図るため、宗教者の分野で大いに対話・共同をすすめていく、 ロマンあふれる活動をくりひろげていきたいとおもいます。合掌」という発言をしていた。

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◎千本釈迦堂は「おかめ堂」?か

 次郎と友子は今日は、京都市上京区五辻通にある、京都市内としては最も古い、貴重な遺構である大報恩寺(千本釈迦堂)に来ている。
 次郎は数年前に、年末の大根焚きの行列に並んだことはあったが、本堂の拝観は出来ていなかった。友子は初めてだ。
 市バス「上七軒」で下車、七本松通りを南に突き当たったところが千本釈迦堂だ。全体は町の中にある氏神さんのような感じだが、国宝の本堂はやはり堂々として、歴史の重みを感じさせる。
 寺の沿革によれば「今から約八百年前に鎌倉初期安貞元年(ーニニ七)義空上人によって開設された。本堂は創建時そのままのものであり、応仁・文明の乱にも奇跡的に戦火を免れ、京洛最古の建造物として国宝に指定されている。義空上人は、藤原秀衡の孫にあたり、十九歳で叡山澄憲僧都に師事、十数年の後この千本の地を得て、苦難の末本堂を始め諸伽藍を建立した」。
 突然、友子が大きな声を上げた。「本堂に向かって右の塚におかめが座っている。こんな相撲取りのようなおかめを見るのは初めてや」
 「おかめ塚」の由来については寺の沿革では「本堂建立の際、棟梁である高次が、かけ替えのない柱の寸法を切り誤ってしまった。これを見た妻のおかめがいっそ『ますぐみ』をほどこせば」というひと言。この着想が結果として成功をおさめた。
 安貞元年十二月二十六日、厳粛な上棟式が行なわれたが、この日を待たずして、妻は自ら自刃して果てた。女の提言によって棟梁としての大任を果たし得たということが、世間にもれ聞こえては…。『この身をいっそ夫の名声に捧げましょう』と。
 次郎が語る。「しかし結果としては、実は妻の提言だったということを今日までの八百
年間、おかめは世間に知らせ続けてきたことになっている。おかめが一番恐れていたことを、寺はなぜやっているのか。本当に不思議なことだ」
 友子も語る。「棟梁の妻たる者が、上棟式という祝いの日を目前にして自刃するなどとは考えられない話だ。『おかめよくやつた』とは到底誉めてやれない」
 二人は本堂に入ると、御本尊の釈迦如来像は扉を閉じておられたようだが、本堂の前にもおかめ像。しかも本堂の横の部屋にはまたおかめの巨大像。その前には各地から集められた各種のおかめ人形がびっしりと置かれている。
 「これではまるで、おかめ堂だ…」次郎は思わず叫んだ。友子は再びおかめ塚に行っていたが帰ってきて「昭和五十四年建立と書かれていた。最近なのだ」と不思議そうにつぶやいた。
 次郎は語った。「伝説というものは何かしらうさんくさくて、背後にも、よからぬたくらみがあって、それで不当に得をする者の世論誘導の印象を受けるのだが。今回の『おかめ伝説』の場合はどうだろうか」
 次郎は友子の手をとって。
 「でも、大根焚きに集まった女性たちはみんな元気で明るかったから、一方的に夫の犠牲になるような時代錯誤はもうとっくに過去の遺物になっているのではないかなあ…」
 「友ちゃん帰りに京名物の『にしんそば』でもたべよう」「賛成です」友子の声は明るかった。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2016年12月、2017年2月号掲載